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2010年 06月 26日
拙著『眞夏の夜の二十面相』(2003年/北冬書房)のあとがきに、私は中学時代のマンガ研究会のことを書いている。自分のマンガ歴を考えると、中学時代のマン研がスタートラインになっていると考えるからだ。
《小・中・高の学校生活の中でたった1度だけ「長」の付く役割をしたことがある。それは1968年、中学2年生の1学期のことだった。学校の廊下の壁に「マンガ研究会設立メンバー募集」の貼り紙をみつけた。呼びかけ人は利発な1年生のТ君だったが、Т君のご指名で私は部長に抜擢された。 性格的に私は部長向きではないと断ったが、メンバーの中で私がいちばんマンガに詳しいという理由で初代部長という大役を与えられたのだ。 マン研の活動のメインは作品合評会だった。土曜日の放課後、美術室に集まり、各自が持ち寄った作品を見せあい、互いに批評しあった。部長の私が手ブラで合評会に出ては示しがつかないので、平日の夜は創作にはげんだ。》(あとがきから抜粋) 小学生の頃から1度もリーダー的な立場に立たされたことのなかった私が、「初代部長」という大役についたことはプレッシャーであったが、ひそかな誇りでもあった。なのでその時期に急速にマンガへの意識が深まっていった。 時代が、さまざまな新しい文化が咲き乱れていた時代なので、十代後半には色んなものに興味を広めて行ったが、自分の支柱になるものはやはりマンガで、少しマンガから離れても、またマンガに戻ってきた。中学時代に夢中でマンガを描いた、その楽しく充実した記憶が、また私をマンガへと戻して行ったのだろう。 私は今もこうやってマンガを描き続けているので、自分のマンガ歴を振り返ることが時々ある。誰かから質問されるときや、何かの折りにはマンガ歴を振り返り、中学時代のマン研を思い出す。必然的にT君のことも思い出す。 T君は高校生の頃にバンドを始め、マンガから離れて行った。大学生になってもバンドは続けていたようで、その頃までの消息は知っている。しかし、その後の消息は知らないままだった。どんな大人になっていっただろうか? 知りたいような、知りたくないような・・・・。 それが昨日ひょんなことから、T君の消息を知った。T君はプロのミュージシャン&作詞家&プロデューサーになっていたのだった。メディアで名前や顔を見ていたかもしれないが、私はメジャーシーンのことには疎いので、まったく気付かなかった。 慌ててネットで検索してみると、色んな写真が出てきた。とある一枚(比較的若い頃とおぼしき写真の顔)が、少年時代のT君そのままの顔であった。たしかに間違いない。これはT君だ。 しかし、華々しい経歴を見ながら、自分とはかけ離れた世界で生きてきたんだと思い、なんだか・・・・・。きっと中学時代のマン研のことなど憶えてはいないだろうな・・・・・・。 でも、ひとつ嬉しくなるようなインタビュー記事があった。約900曲もの作詞をてがけてきた作詞家が選んだ一曲は・・・・。 Q : あまり売れなかったが、私の好きなこの歌 A : そこそこ売れたのですが、「鉄腕アトム」で育ったぼくは手塚治虫のアニメ遺作「青いブリンク」(NHK)の主題歌を書かせていただいたことが夢のようでした。南野陽子の「瞳のなかの未来」です。 「夢のようでした」か・・・・。 やっぱり、元マンガ少年!! と、嬉しくなった。
by jun-milky
| 2010-06-26 21:09
| 日記
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