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2007年 12月 04日
手にみかんひとつにぎって子が転ぶ
----- 多田道太郎 ----- 今日の夕刊で、多田道太郎氏の訃報を知った。2日に83歳で他界された。 ひとり娘の謡子さんが亡くなられたのは1986年12月18日。先立った娘と21年ぶりに天国で再会して、父娘でどんな話をするのかしら? 学者だった父親と弁護士だった娘だけど、難しい話はさておき・・・。天国の縁側で二人並んで、みかんでも食べているかもしれないね。 私の父が亡くなったのは、謡子さんと同じ1986年(の3月)。その翌年だっただろうか。謡子さんの遺作集『私の敵が見えてきた』を友人が送ってくれ、その本で多田謡子という人のことを知り、そして多田道太郎一家がかつて同じ団地に住んでいたことを知った。 父は若いころ弁護士を志していたが、戦中戦後の諸事情で断念し、地方公務員として生涯を終えた。自分の夢を息子に託そうとしたが、息子は違う道を選び、父は残念そうだった。娘は頭が悪いので、はじめから期待はしなかったが、しかし僅かな期待はあったのだろうか。私が放浪の旅から出戻ってきたときだった。「今からでも遅くないから法学部へ行く気はないか?」と持ちかけてきた。しかし残念ながら期待には応えられなかった。 きっと父は天国で道太郎氏と知り合って、「いいですね。弁護士の娘さんをお持ちで羨ましい。うちの娘はバカでバカで・・・」なんて言ってるような気がする。弁解したいことは多々あるが、私は当分、天国へ行くつもりはないので、好きに言わせておこう。 去年、『未来』連載の「<事件>は誘惑する」(内藤寿子)で、多田道太郎氏の香里団地時代の活動を遅ればせながら知った。 「香里団地とは、朝鮮半島での戦争とみずからの日常を結びつけるまなざしから生まれたものである」----であるため多田道太郎たちはサルトルとボーヴォワールを香里団地へ招いた、そのいきさつなどが連載1回目に書かれていた。連載2回目には香里団地保育所のこと。幼児ばかりでなく乳児も引き受けた日本初の公立保育所。この先駆的な保育所も多田道太郎氏たちの活動によるもの。 道太郎氏たちが築き上げてくれた土壌があったから、解放的な母親たちも多く、うちの母なんぞは第二の青春をやってられたのかもしれない。ありがとう、道太郎氏。 長々とつまらぬことを書きました。道太郎氏ともなれば、たくさんの追悼文が寄せられるでしょうが、それを読むのは後回しにして、まずはゆっくりと謡子さんと親子水入らずで再会を楽しんでください。合掌。
by jun-milky
| 2007-12-04 23:24
| 日記
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