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2024年 04月 11日
戦前から断続的に結成されてきた「京大俳句会」が、2009年に「第三次京大俳句会」として発足し、今年3月に休会(解散)となって15年間の活動を閉じた。 うらたじゅんは第三次の発足時から参加、いつまで句会に参加していたかはわからないが、残された句帳には2015年1月まで200句余りが残っている。 今年3月末、京大俳句の会報の終刊号が発行され、表紙などに西部講堂、吉田寮など京都大学周辺の風景を描いたうらたじゅんのイラスト約10点が使われている。 <京大俳句 会誌 自由船> 問い合わせ 奥村つよし 大阪府枚方市星丘2丁目27-18 E-mail:t0103t@gmail.com うらたじゅんの句作 ひたむきに生きた生涯(終刊号へ寄稿・荒木ゆずる) 四度のがんの手術を経て、二〇一九年二月にうらたじゅんは六四歳で他界しました。最初の胃がんから、一七年間を彼女は常に死を意識しながら、食事や運動など健康に留意し、漫画やイラストを描き、個展、ライブ、イベントなどに足を運び、様々な人たちと交流を重ねてひたむきに生きました。 彼女が座右に置いていたマルチン・ルターの言葉「たとえ明日世界が終ろうとも、私は今日、リンゴの木を植えるだろう」をブログに書いたのは、死がおとずれるその日まで精一杯生き抜くという決意の表われだったと思います。彼女にとっては俳句もまたリンゴの木でした。 片腕をもがれてもなお寒桜 傘破れまっしぐら百万遍 二〇〇九年二月、初めて「京大俳句会」に参加した動機を彼女は、「京大・吉田寮で句会をする、という連絡を知人から受け、吉田寮見たさに『参加します』と即答した。とはいえ、俳句なんか作ったことがない。母が愛用していた古い季語集を引っ張り出して、句作に初挑戦してみました」とブログに書きましたが、持ち前の好奇心の強さと母親に対する思いがあったと思います。 母親は亡くなるずっと以前に夫を亡くした後、しばらくして若年性アルツハイマー病を発症、進行してからは娘を認識しなくなりました。父親への傾倒が強かったうらたじゅんは、若いころから母親との間に距離をおいていましたが、介護し、母親の死を看取ったこと、そこに自分が娘を産み、孫の誕生に立ち会った時間を重ねて、彼女自身もまた母親に大切に育てられたことを想起します。「俳句会」に参加して句作することで、俳句を趣味にしていた母親の「季語集」を繙き、跡をたどりたいと願ったのでしょう。 物言わぬ母の瞳につばき散る 薄化粧父待つ星へ母が逝く もう、四〇年以上前のこと、結婚して数年後の貧乏時代、彼女は京都のオルゴール店に入り、一つのオルゴールに目を留めました。どうしても欲しい、でも一万円以上するのでとても買えない、持ち合わせもない。長時間、手に持っていると見かねた女店主が「代金は後日でいいので、持って帰っていいですよ」といってくれた。後先考えず持ち帰り、後日、家中の金をかき集め、支払いに行きました。 また一〇代の頃、京都で寺山修司の講演が終わった後、彼に近づき「劇団員募集の広告に希望者は作文を書いて送るようにとありましたが、言葉より行為を大切にされているのになぜ作文を書かせるんですか」と聞いたら、彼が「どれだけやる気があるかをみるため」と答えたそうです。 彼女は、若いころから決断力があり物怖じせず、未知の扉の前で臆するより飛び込むタイプでした。それで人生を切り開いてきたのだと思います。 天高し書を売り払い旅に出る #
by jun-milky
| 2024-04-11 13:08
| うらたじゅん活動記録
2023年 12月 11日
筑摩書房から12月10日「孤独まんが」が発行されました。
今回、掲載されたうらたじゅんの作品は「思い出のおっちゃん」です。 初出は「ガロ」4月号(1998年)で、 後に「眞夏の夜の二十面相」(北冬書房・2003年)に転載されました。 「子どもの頃、どこからともなくやってきて小学校の校門前でガラクタを 商っていた行商人のおじさんへの追想…」(編者解説より) #
by jun-milky
| 2023-12-11 13:00
2023年 09月 03日
9月3日(日)毎日新聞朝刊文化欄に、 昨年1月に発行されたちくま文庫アンソロジー『書痴漫画』の書評が載りました。 漫画家いしかわじゅん氏の「漫画を読んだ」シリーズで、 うらたじゅんの作品『新宿泥棒神田日記』にも少し触れ、 その一コマも載っています。 #
by jun-milky
| 2023-09-03 12:02
| うらたじゅんの作品
2023年 05月 18日
前回の続きで、東京から北へ向かう。19歳の僕はまだ世界が認識できず、位置が定まらないまま、確かな目的もなく、初対面の人と会うことに躊躇もなく、野放図に動き回っていた。思い出というのは自己陶酔しがちだ。感情のもろい部分に寄生して、正当化、美化し、対象化を不可能にする。だからここまで、ときに自虐的に、また露悪的に、当時経験したことを抜粋し、戯画化して書いてきた。それもまた危ういのだが、自覚的にも無自覚的にもこの日本社会の制度や慣習から距離をおく人たちの、そして僕自身の、それぞれの精一杯の若い生を書きとめたつもり。 今回は宇都宮の人の話で、これが「風と月と」の最終回になる。うらたじゅんが描いてくれたこの章の絵のほかに、裏表紙と掲載を見合わせた話の扉絵3点も縮小してここに公開する。
ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございました。
荒木ゆずる 多摩丘陵の麓の多摩川中流域に「部族」のメンバー、マンの住む寺があるとサンセイに教えられ、僕はサンセイの家を出てからそこへ直行した。 寺は比較的新しい建物のように見えた。応対した女性に、本堂から続く廊下の奥の部屋を指示されて向かうと、そこにはすでに三、四人の男性がいたので挨拶して話すと、部屋で寝るのは自由だが布団はない、食事や飲み物は一切出さないというのがここのきまりだといわれた。五日市よりはずっと都心に近いので、次々とやってくる客にいちいち食事を出すわけにはいかないのだろう。 荷物を置いて庭に出ると、最初に話した女性が微笑みながら近づいてきて名前を聞いたので答えると、彼女はアイと名乗り、聞かれるまま、ここへ来た経緯などを話して、散歩に適した場所を聞くと、多摩川の河川敷への道を教えてくれた。アイさんは僕より少し年上に見える細身で髪の長いきれいな人だった。 多摩川の岸には大きな丸い石が積み重なり、対岸の水平の緑の帯の向こうに初冬の早い夕陽が落ちようとしていて、僕は暗くなるまでそこに座り、今まで会った人たちを思い、この後のことをあれこれ考えていて、冷気にその流れを断ち切られて戻った。 寺の前では枯れ葉を集めて数人が焚き火をしていたので近づくと、アイさんがマンを紹介した。僕に挨拶だけして、関心がなさそうに他の男との会話に戻ったマンは、精悍な容貌でとっつきにくそうな印象だった。歓迎されていないので、夜中でも朝でも目覚めたらすぐに発つつもりで屋内へ戻って眠ることにした。 廊下の板間にシュラフを広げて寝て、早朝目が覚め、リュックを担いで、他の男性たちを起こさないよう静かに外へ出ると、庭で掃除をしているアイさんがいた。挨拶して発つことを告げると、「気をつけてね」といってから、ちょっと待つようにいいおいて建物内に入り、しばらくして出てきた彼女は、新聞紙に包んだ食パン二枚とおかき数個、そして一〇円玉と五円玉計一五円を僕の手に持たせた。 昨日、サンセイのところで朝食を食べたきりだったので、最寄りの駅へ着くまでにパンを一枚食べた。駅では通勤客に紛れて改札を通り抜ける。切符に鋏を入れる駅員の監視も通勤時間帯は甘くなるのだ。サンセイから教えられた「でいらん」の住む宇都宮へ向かうつもりで国道4号線を北上するのに至便な国鉄北千住駅へ向かう。キセル切符を拾って北千住駅を出ると、にわかに空が曇って小雨が降りだし、車も比較的多かったので、交通量が減るまでしばらく歩くことにしたが雨がひどくなり、車はなかなか止まってくれないので民家の軒先やバス停で雨宿りしながら進む。おかきを食べながら、茶色のワンピースの上に厚手の黄色いカーディガンを着て手を振っていたアイさんの姿を浮かべた。 約一〇〇キロの行程の宇都宮へ着いたとき、雨は小止みになっていたが辺りは暗くなっていた。最寄りの交番で、町名をいって場所を教えてもらい、商店街を抜け、住宅街を縫って一時間余り歩き、目的の住所へたどり着いた。同じような住宅が立ち並ぶ平屋の普通の一軒家の開いた門から玄関口へ。戸を叩く。中年の女性が出てきて、息子は留守だといって行き先を教えてくれた。 一〇分ほど歩くと道路に灯りが漏れている居酒屋が見え、板戸を開けると、道に沿って一〇脚くらいの椅子が並ぶカウンター、客が三、四人。僕がでいらんのことを尋ねると店の人が顎で示す。中肉中背の感じ、髪は短く、作業着姿のごく普通の恰好。年は二二、三歳。立ったままあいさつする。 「大阪から来たユズルといいます。サンセイから聞いて来ました」 「大変だったでしょ、今日雨降ってたから。どうぞ座って。お腹空いてますか、やきそば食べる?」 自分の前に置かれた食べかけのやきそばを示す。 「ありがとうございます」 「全部食べていいよ」 勢いよく食べ始めた様子を見てでいらんが気易い調子で話す。大阪や京都の知人の名を挙げ、何人かは僕も知っていて、クロについて「『ほら貝』で会ったな。元気にしてる?」。ほら貝は部族のメンバーが経営する国分寺の喫茶店である。 「ええ、元気ですよ」 僕は七山小屋での生活を簡単に話して、「元気ですけど、僕がこっち来る前は虫歯で泣いてました」 「虫歯?」 「はい。下の奥歯。何日か前から痛み出してて、夜中、大騒ぎなんですよ。最初は正露丸、それが奥歯の穴にスコンと入る。薬が切れてから、クロにいわれて今治水買うてきて、あれも脱脂綿に浸してピンセットで穴に詰めるんです。痛なったらすぐ詰めてたんですけど、何回目か、その脱脂綿、交換しようと思たんやけど、なかなか取れへんで、往生しましたわ」 「あれって効くの?」 「効くみたいですよ。ちょっとの間みたいですけど」 「クロってちょっとユニークなとこあったよね」 「そうなんです。こないだも一緒に京都行ったんですけど、河原町四条の駅で、キセルやから僕が落ちてる切符探してたら、『そんなもん必要ない』とかいうて、柵、ヒョイと乗り越えよって、案の定、駅員に追っかけられて、下駄やからすぐ捕まりよった。キセルで出た僕がそれ見て戻って駅員に『切符、どっかで落として、おしっこ我慢できんかったんで、それで…』いうて見え透いた嘘で謝って、一つ手前の駅から乗ったいうて、一区間の切符の料金払たんですよ。その間、駅長室で瞑想してるんか何か、ずっと目ェつぶって他人事みたいに知らん顔してるんやから、ホンマ、一般社会溶け込ますんは難儀しますわ」 僕は食事をおごってもらって、サービス精神を働かせ饒舌になる。 「でも、彼って憎めないでしょ」 「そうなんです。そこが厄介なんです」 「あ、酒、飲む?」 焼きそばを食べ終えたのを見て聞く。 「いえ、結構です」 僕は酒が飲めなかった。 「じゃ、何か食べる?」 「おでん、いいですか?」 「おやじさん、酒と関東炊き、適当に、それから水」 おでんで腹を満たし、でいらんの勘定で店を出た。さっきの家の庭にプレハブの離れがあってそこにでいらんの後から入る。六畳一間のでいらんの部屋。ベッドの横に箪笥と小さな机、本とレコードの本棚。でいらんが、部屋の中央の空間に母屋から持ってきた茶と菓子をおき、僕に食べるよう促してから着替えた。 僕の前に胡座をかいて、床に置かれたプレーヤーにLPレコードを載せた。ジェファーソン・エアプレイン、グレース・スリックの力強い声が飛び出してきた。僕にシンセイを勧めて自分も吸いながら、レコードの音で聞き取れないくらいの小さな声で話し始めた。 「オレさ、もう止めたんだ、旅。この家戻ってもう半年経つ。その間、二、三回東京行ったけど、もう行きたいと思わない。これまで何人か、君みたいなのが来てくれてたけど、最近は誰も来てない。オレが呼ばないようにしてるからね。久しぶりだよ。サンセイは何で君に住所教えたのかな」 ちょっと雲行きが怪しい。「兄貴が家出てって、親父のやってる鉄工所手伝えっていわれてさ、この部屋も建ててもらって、給料も安いがもらってる。だから、だからさ、迷惑なんだ」 リードギターが悲痛な叫びをあげている。この国の社会のあり方に反抗しながら、懐柔され、あるいは保身に走り、去った者たち。物言わぬ羊の群れに紛れていった者たち。「明日、オレ、朝早いから先出るけど、あと適当にしてっていいよ」 プレーヤーのスイッチを切って、僕の寝るスペースをつくり、でいらんがベッドに入った。僕がシュラフを出してもぐると蛍光灯が消えた。 朝起きると、机の上にトーストと目玉焼きの載った皿が置いてあった。その横に「北海道、気をつけて行ってください。レコード、好きにきいていいです。これは少ないですがカンパです」のメモ。百円札二枚と硬貨、計二六二円。シュラフをたたみ、朝食を食べた。 一〇〇枚ほどのレコードの端にセピアのジャケット、今年出たCSN&Yの「デジャ・ヴ」だ。針を置いた。ニール・ヤングの鼻に抜けた声が流れている。「Helpless」。昨日から雨は降り続いている。「There is a town innorth Ontario ~」
北の町オンタリオを発った/自分を変えるために/星が瞬き、月が冴え、鳥が過ぎ/でも疲れた/身も心も疲れ果てた 福島県の郡山で買った一個五円のコロッケ二個と一〇円の耳パン。郊外へ出て、食べながら歩く。時雨を撥ねて過ぎ行く車。背後から鳴り続ける「Helpless」のリフレーン。去った者たちを批判するのはたやすい。だが駆ける者より沈黙している者の苦悩の方が軽いと誰が言えよう。暮れ始めた北へ向かう国道4号線を吹く風が、道端の濡れそぼつ枯れ草を置き去りにして過ぎていく。
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by jun-milky
| 2023-05-18 13:31
2023年 05月 06日
七山小屋のクロとの生活に疲れると僕はリュックを担いで旅に出た。それまでの怠惰で享楽的な旅には飽きていた。金のない享楽なんてたかが知れているのだが、それでもいろんな連中と出会うなかで内省的になっていて12月、東京都の西方、五日市町にいた部族のメンバー山尾三省の家へ行った。部族関係とかかわるのは気が重かったが、口コミ情報で知り得た旅の途中泊まれるところはそこ以外にはあまりなかった。9月以来、風月堂にもケイのアパートにも行っていない。 このころうらたじゅんは高校一年生だった。サリンジャーやジイドや野坂昭如、大江健三郎などの小説を読んだとブログに書いている。傾向がバラバラだが、体制批判的、反社会的なところは共通している。グループサウンズを卒業してロックやフォークを聴き、エコール・ド・パリの画家たちに心酔、そして自給自足のヒッピーたちの旅に憧れていた。 七山小屋の前の一〇〇坪ほどの空き地に密生する薄に映えていた光は、夜冷え込む季節になると色を失い、やがて風のそよぎだけとなった。夏、頻繁に訪れていた客足も遠のき、僕とクロの二人で過ごす日々が多くなっていた。 クロの作る料理は雑で、クロもそれを自覚していたのか、僕が小屋に居着くようになるとまもなく、炊事を僕に任せるようになり、水汲み、薪集めなどもほとんど僕の作業となって、小屋での生活に疲れていた僕は一二月、リュックにシュラフ、飯盒、毛布などを詰めて、ただ何となく北を目指した。 琵琶湖の西を北上し、福井市に着いたときは暗くなっていて、雪にぬかるんだ道を福井大学の寮へ向かった。受付の学生に泊まりたいと伝えると、五〇円を要求され「金は持ってない」というと、記帳だけして後で送ってくれたらいいという投げやりな対応で、適当な大学名と名前を書くと、部屋の場所を教えてくれる。 部屋は一〇畳、布団は押入、真ん中に掘炬燵があって壁に炭代二〇円の張り紙。荷物を下ろしてコートを脱ぎ、念のために炬燵に入ってみたがやはり暖かくはない。湿った薄い布団を敷き、セーターとズボンを着けたまま横になったが寒くて寝付けず、炬燵の布団も重ね体を縮めて眠った。 朝、トイレに立つと窓から雪が激しく舞っているのが見えた。廊下の突き当たりに炊事場があり、タイル張りの流しに五つほどの蛇口、そこから直接水を飲む。流し台の端に学生が置いたと思われるプラスチックの食器があって、見ると鉢には白いごはんが半分ほど、皿にはこちらも鯖の煮付けが半切れほど、あと沢庵が一切れ、周囲には誰もいない。僕は鉢に鯖と沢庵を載せ、急いで部屋へ持っていき食べる。飯はまだ温かかい。 荷造りをして玄関へ向かう。朝から誰とも出会っていない。僕が履いてきたのは古いズック靴で、玄関には運動靴、革靴、下駄、長靴などが二〇足ほど乱雑に脱ぎ捨てられている。どれもボロだが長靴は五、六足あり、最も新しそうなものを選んで履いた。履いてしまったからには急がねばならない。 雲は空を覆っていたが幸い雪は小止みだ。朝食にありつけ、気になっていた濡れた靴は履き替え、8号線を北上する。北陸路を新潟まで進むつもりだったが、富山市に着く手前で右の長靴の先が破れてきた。僕は登山用の厚い靴下を履いてその上から新聞紙を巻いて長靴を履いていたがその新聞が湿ってきた。長靴を脱いで新聞の位置をずらしてはみるが、雪道で長くは持たず、今度は左も穴が開く。雪の多い日本海側を避けて富山市から三井の神岡鉱山がカドミウムを流して汚染した神通川沿いに南下することにした。遙か谷底の雪の間を縫う神通川はイメージに反して清らかに流れていた。 飛騨の山中に入ると国道脇の雪はますます高くなり、分水嶺を越えてようやく雪がまばらになる。谷間に煌々とした灯り、浴衣の男女、下呂温泉の賑わいを横目に見て名古屋を目指そうとしたが、一軒の旅館の開けはなった広い玄関の中に下駄や靴があって、様子をうかがったが誰もいない。急いで茶色のスエード靴をコートで隠して飛び出し、離れた空き地で長靴を履き替える。少し小さかったが歩けなくはない。名古屋駅に着き待合室で寝て、翌日東京へ向かった。 晴れている。見通しもよく、ヒッチハイク日和だ。東海道1号線、湖、松林、富士山、のんびりとした風景が流れていった。途中、運転手が車中にあった菓子パンをくれた。食事は前日の朝以来だから、その食べっぷりに同情したのか、車内にあった残り二個もくれた。 東京に着いたら「部族」のメンバーの一人、サンセイの所へ行こうと思っていた。手帳にはその住所が書いてある。夕刻、都内に入ってからトラックの運転手に住所を伝えると、国鉄の知らない駅近くで降ろされた。駅員に住所を見せると最寄りは五日市駅だという。不正乗車するにしても通常は一区間の乗車券か入場券を買わなければ改札は通れない。大阪を出るとき持って出た金は五〇円余り、まだ使っていないが三〇円の切符など買えない。改札の前で人を待っている風を装ってチャンスをうかがい、駅員が持ち場を外した隙に改札を通り抜けた。 最寄りの小さな五日市駅では切符を拾えないだろうと思い、手前の八王子駅で落ちていた切符を拾って出る。駅員に目的地の住所を示すと地図を出して教えてくれた。遠い、おまけに曇っている。町並を抜けてヒッチハイクを始め、短い距離を二台乗り継ぐとようやく五日市駅の灯りが見えた。 歩き始めると未舗装の道は山中に入り、外灯がなくなった。一方は谷で他方は崖、崖に沿ってほとんど手探りで進むが車は来ない。二〇分ほど歩いただろうか、小型の乗用車が止まった。すぐ横に停車したので、こちらの合図ではなく向こうから止まってくれた。運転手は若い女性で、僕の風体を見て「サンセイさんのところでしょ」と慣れている様子。このまま着けるかどうか不安だったのでこの親切な女性に感謝。 サンセイの家は道路から小さな川を挟んだ向こうの木造平屋の古い農家の一軒家だった。木戸を叩くと三〇歳くらいの女性が出てきた。歓迎されると思いこんでいたが、玄関口でとまどった表情を見せる女性にこちらも当惑していると、中から男性が出てきて、こちらも三〇歳前後、この人が招き入れてくれ、板間の囲炉裏端へ誘った。聞かれるままここまでの経緯を話していると、しばらくしてサンセイが帰ってきた。 身長は一メートル五〇センチほどか、髪が短く地味な服装。三〇代前半か。さっきの男性が立ち上がった僕とサンセイを引き合わせ、噂に聞くサンセイの前で僕は緊張して挨拶した。僕たちは囲炉裏端に座り、僕が大阪から来て北海道へ向かう途中だというと、サンセイは今の北海道は厳しいといって防寒対策についてアドバイスし、宇都宮、仙台、旭川など知人の住所をいくつか教えてくれた。そこへ最初に対応した女性、サンセイの妻のミドリさんがお茶を三人分運んできた。サンセイは七山小屋のことを知っていて、一度寄ろうと思って近くまで行ったが工業地帯が延々と続くのにウンザリして引き返したのだという。僕を招き入れたサンセイの友人の男性が帰り、サンセイが僕に夕食は食べたかと聞いたので、まだと正直に答える。空腹だった。 戸の隙間から山里の寒風が忍び入り、サンセイが囲炉裏に薪をくべる。ミドリさんが雑炊とみそ汁と漬物の食事を二人分運んできた。サンセイは僕の話を聞きながら時折自分のことを話す、一〇歳以上も年下の男に対等に接してくれるサンセイに僕は好感を抱いた。 次の日、目覚めるとサンセイは庭で作業をしていた。晴れている。初冬の尖った空気の中へ踏み出した僕の後から小学校低学年くらいの男の子が二人奥の部屋から出てきて、中からミドリさんが「タロウ、ジロウ」と呼びかける。子どもたちは薪割りをしているサンセイの側で遊び始めた。やがて食事の用意ができたとミドリさんが声をかけ、みんなで中へ入って囲炉裏端で質素な朝食をとった。 子どもたちが学校へいき、僕は薪割りを手伝い、午後からはサンセイに頼まれて干し柿を吊す作業を手伝った。縁側で枝のついた柿の皮をむいていると、ざる一杯の柿を運びながら、サンセイが皮むき作業に対する心遣いだろうか、作業は夕方までかかりそうで、今日も泊まっていくよういう。 その後サンセイはどこかへ出かけ、僕が皮をむいた柿の枝に縄を通していると、背広を着た男が二人、道からこっちへ入ってきた。僕がミドリさんを呼びにいくと、ミドリさんは男と応対してから一旦家へ入り、慌てた様子で出ていった。男たちは庭に設置されている木製の大テーブルの前に座って、作業をしている僕を見ていたが、やがて二人で何か話し始めた。 三〇分か一時間か経った頃、サンセイとミドリさんが戻ってきて、サンセイが男たちのテーブルに着いた。旧知の仲のような、親しげな様子で話しているので僕が少し安心していると、ミドリさんが男たちに茶を運んだ。三〇分くらい話して帰っていく男たちが見えなくなってから、サンセイがミドリさんに「あの連中に茶なんか出さなくていい」と強い調子でいった。そして僕に「刑事」といった。たまに様子を見に来るらしい。この山村にヒッピーが移ってきたというのは村にとって一つの事件なのだ。昨日、車に乗せてくれた若い女性ばかりではない。異物に侵入された村落は本能的に排除に向かう。村人の視線を正面から受け、刑事の嫌がらせに耐え、同化していく道のりは容易ではないだろうと感じた。 夕刻、ミドリさんが天ぷらを揚げるのを手伝っていると、学校から帰ってきた子どもたちが揚げたそばから天ぷらを取っていくのをサンセイが叱った。その声の荒さに僕はちょっと驚いたが、しばらくしょげていた子どもたちはすぐにはしゃぎ始めた。 天ぷらを食べるのも腹一杯の食事も久しぶりで、食べることの幸福と人の温かさを味わった。子どもたちが寝た後、サンセイが勧める煙草を吸いながら、コミューンやそこのメンバーなどの話を聞いたあと、サンセイが「明日の朝、早いので」といったので、僕は礼をいい布団を敷いて横になった。 朝、サンセイが出かけた。寒さでしばらく布団の中にいたが、思い切って起き布団をたたむ。まもなくミドリさんが朝食の用意を始めたので手伝う。子どもたちと一緒に食べ、子どもたちが学校へ行ってから、僕もリュックを背負い、ミドリさんに礼をいって、家を後にした。道は下りで歩きやすく、しばらくすると寒さを感じなくなった。両側から迫る木々の間に青い空が広がっていた。 #
by jun-milky
| 2023-05-06 16:33
| うらたじゅんの作品
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