|
2009年 08月 01日
ひばりが「一本の鉛筆」を初めて広島平和音楽祭で唄ったのは1974年の8月。そのころ私は、ヒッチハイクで北海道を旅していた。
旅へ出る前年の秋。父から美空ひばりのコンサートに誘われた。その梅田コマ劇場に「耕三さん」が来てるから、お前も一緒に来ないか?と、父に誘われた。しかし、野外ロックコンサートにフィーバーしていた私には、歌謡曲なんて興味がなかった。 警戒もしていた。何か企んでいるに違いない。兄貴が父の期待に背いて、文学部へ進んだものだから、仕方ないので、頭の悪い私にまで「法学部」だなんて言い出すかもしれない。 それもあって、私は行かなかった。 夏のおわり、北海道からUターンし、次は沖縄へ向かった。そして翌年の春、家出したはずの実家へ、のこのこと舞い戻ってきた。 おもむろに父は言った。「今から勉強して、法学部へ行かないか? 」 弁護士は無理でも、司法書士とかナントカ書士とか、色々あるし。法学部に入りさえしたら、あとは、耕三さんの法律事務所に預かってもらうから。そこで勉強しながら将来のことを考えればいいと、父は私を口説いた。しかし、法学なんて、まるで興味がなかった。 耕三さんという心強い後ろ盾がいるため、父は、頭の悪い私にまで何かを期待しようとしてるのだと思うと、「耕三さん」の存在がなんだかプレッシャーに思えた。 しかし、そんな深い意味はなく、挫折感と傷心で旅から戻って来た娘の前途を案じて、面倒見のいい耕三さんのもとに預けてみようと、思っただけかもしれない。 父からは色んな話を聞きそびれてしまった。もともと、あまり自分のことを多くは語らない人だったので。 ようやく、親の生きた時代に目を向け始めた頃には、父は他界し、母は呆け、すでに遅し。もっと色んなこと聞いておけばよかったと思った。 ただ、子どもの頃に父から聞いた話で、忘れられない言葉があった。 「しんせきのお兄さんが、友だちと励まし合いながら勉強してる姿を見て、ぼくも弁護士になろうと思った」 「友だちと励まし合いながら」という部分が、子ども心に響き、残った。 少年であった父も、そこに心揺さぶられ、学問への志を胸に抱いたのだろう。 ある時代の苦学生の友情の物語として、「鈴懸の径」という物語(フィクション)を構想した。そこには、父の生きた時代のことを何も知らずにいてごめんなさい、という父への詫び状の気持ちもあった。 歴史的な客観性に欠け、批判もいただいたけど、描いてよかったと思う。あれを描くために半年がかりで、昭和史の本を何十冊も読みあさった。あとの半年で物語を幾度も推敲した。たった24ページのマンガを描くのに、1年がかりの時間と労力を費やしてしまった。そこまで費やしても、作品的にはあまり評価も得られず、一時は徒労感だけが残ったが・・・。 しかし、父の生きた時代を学び、考えたことは、決して無駄なことではなかった。それは父への理解につながり、自分自身の成長につながった。それが何よりの収穫である。物をかく、ということの大切さは、そこにあるのかもしれない。だから結果は、二の次なのだ。描こうとすることに意味があるのだということを心にとどめていよう。
by jun-milky
| 2009-08-01 23:59
| 日記
|
ファン申請 |
||