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2023年 03月 13日
大阪南部の小丘にヒッピーコミューンと呼ばれていた<七山小屋>があって、僕は1970年6月から12月まで過ごし、そこを拠点に日本各地をヒッチハイクで移動していた。長野県富士見町にも、自給自足を目指してコミューンを築いていた<部族>という集団がいて、そこにも行ったが、コミューンの斜に構え気取った連中より新宿、風月堂のフーテンたちと会っている方が心安かったので、6月から8月くらいの2、3カ月間だけだが、よく風月堂へ行った。3回目の「かつ丼とソフトクリーム」も、深大寺広場から続く形で、風月堂のフーテンの話になるが、次回からは新宿から離れ、大阪や他の地方に舞台を移す。 深大寺広場の隅の草むらで目覚めた僕の周囲では、早朝から人が行き来していた。うろついていると、トシがフーテンと二人、毛布に座っているのが見えた。 トシは、風月堂で最初に僕に話しかけてきたフーテンだった。濃い目眉が特徴で、中背、筋肉質、黒いTシャツの胸の部分を隆起させていた。二、三歳年上に見え、僕に対して兄のように接していた彼は、あるとき、僕がほとんど金を持っていないのを知って「ちょっと待ってろ」と風月堂を出ていった。二、三時間して戻ってきたトシは、近くに最近開店した小さなカツ丼屋へ僕を誘い、豚カツをかじりながら、風月堂のコーヒー代も任せろというので「金、大丈夫?」と聞いたが笑って答えない。そんなことより、僕は久しぶりの肉の味にとろけていた。 その後、また東京へ行ったとき、トシと風月堂で会った。いつのまにかいなくなっていた彼が戻ってきて、また誘われるままカツ丼屋へ入った。同じ質問をすると今度は答えた。「血液銀行で血ィ、売ってきた」 揚げた肉を切って丼飯に載せ、その上から卵を溶き入れた出汁をかけて客に出し、また赤い肉に衣をつけ高温の油に入れる背を向けた店の親爺の首筋から、汗が玉となって落ちていた。 トシが、昨日から探していたのにどこにいたのか、と咎める調子で聞くので、シオという知り合いに会って話していたと答え、「茶、飲ましてもらえるで」と言い訳がましくいって三人でシオのテントに向かった。 テントの前では、男物のシャツを着たカリンとシオがいたので、紹介すると、朝食にしようといって、カリンが買い物に走り、シオはジャガイモを茹で、玉葱をみじん切り。とにかくいつも料理を作っている男で、詩などいつ読んでいるのか。 みんなでパン、オムレツ、コーヒーの朝食をとっていると、いつからいたのか、一〇メートルほど離れた柵に腰掛けた白人の男が「ファンタスティック、ファンタスティック」といきなり叫びだし、僕たちは一斉に目を奪われた。ブルージーンズに白いシャツの金髪を、トシがこっちの輪に連れてきてコーヒーを勧めたが、「ファンタスティック」を繰り返すばかりで埒があかない。 おそらくLSDをやっているのだとシオがいって、無視することにした。ブルースが熱い空気をふるわせながら流れてくるなか、しばらくして、金髪がやや正気を取り戻してきた。シオが片言の英語で話しかける内、この痩せた長身美形がスウェーデン人で、クリスという名前だと分かった。 その後、僕たちが音楽を聴きながら太陽を浴びて長い気だるい時間をまどろんでいると、トシが風月堂へ行こうと言い出し、僕たちはシオとカリンに別れを告げた。トシとフーテンと三人で歩き出すと、いつの間にかクリスがついてきていて、電車も一緒に乗り、とうとう風月堂までやってきた。席に着くと、クリスが僕に自分の住んでいるところへ行こうと誘う。トシもついて行くといったがクリスが断った。大阪の万博周辺や京都で、若い欧米人がグループで暮らしているのを見ていた僕は、ナマの北欧美人と会えるかもしれないと期待した。トシには悪いが「れっつ・ごう」。 クリスの英語力は僕と同程度で、ほとんどボディ・ランゲージながら、電車内での会話から、彼の年が二三歳で、二週間前に日本に来たこと、京都に行きたいということが分かった。 破れた板塀、錆びついた手すり、そこは古い木造二階建てのアパートで、北欧美人の気配なく、クリスが鍵を開けて入った部屋には四畳半一間の壁際に大きなリュック、畳の上に日本の漫画雑誌が散乱しているばかり。木枠の窓ガラスから射す斜めの陽が、小さな卓袱台の上の干からびた胡瓜の破片、茶色い綿のはみ出た退色座布団などに滲んでいる。 クリスは陽気に、立ちつくしている僕に「セント、セント」といっている。意味がよく分からず「あい・はぶ・のう・まね」とかいって困惑していると、流し台の下から洗面器を取り出し、僕に示す。さらにそこへ石鹸を入れ、リュックからタオルを出してきたので、ようやく分かった。銭湯に行こうというのである。この前風呂に入ったのは、一カ月前だったか、もう随分経ったように思う。僕が同意を示すと、クリスはタオルを一枚渡し、靴を履いた。 泡のあふれた湯に首までつかり、アップにした金髪の襟足の後れ毛の先を濡らしながらブランデーグラス片手に「ジェームズ、カモン」とか甘えた声で……。映画で見たことのある欧米の風呂というのはこういうので、白人が日本の熱い浴槽に肌を赤く染めて入っている光景が想像できない僕の心配をよそに、クリスはしっかり馴染んでいた。一番風呂をもくろんできた老人たちの視線を後目に、浸かっては出て放心し、また浸かっては陶然となって、それを何度も繰り返して僕にも勧めるが、元来、風呂嫌いの僕は付き合いきれず、結局、脱衣場で週刊誌を何冊も見るくらい退屈させられた。 日の長い夏の夕暮れの疎水縁をクリスは美しい顔を上気させ、大はしゃぎで「ジャパニーズ・セント・ファンタスティックネ」と踊るように歩いた。アパートへ戻ると、部屋には日本人の若い男女がいて、パンとコロッケを食べていた。クリスが僕を紹介すると、自分たちの食べ物を勧めてくれたが、二人は僕にほとんど関心を示さず、アルバイト先の上司や同僚の悪口、労働条件がどうの、転職がどうのと話し合っていた。 そのうち、彼らも英語がほとんど話せないこと、クリスが居候だということが分かったが、どういう経緯でクリスがここに泊まるようになったかはいわなかった。彼らは僕に泊まってもいいといってくれ、睡眠不足で、できることならこのまま動きたくなかったが、ここにいることにも強い抵抗があった。一カ月も風呂に入らない僕がいうのも何だが、この部屋には異様な臭いが充満していたのだ。食べ物の腐臭と人の体液の発酵と溶剤臭が混ざり合った刺激的な粒子が飛び交い、体中の皮膚に粘着してきて、おまけに、二人の男女は着る物に構わない性質で、シャツとジーンズはほつれて斑に汚れ、フケを肩に垂らし、まだ二〇歳くらいに見えたが、皮膚はたるみ、荒んでいた。異常に長い銭湯での潔癖感とこの濃厚な部屋で寛いでいる、二つのかけ離れた人格がクリスの中でどう折り合っているのか理解しがたい。 しばらくして二人が買い物に出かけ、クリスと僕も後から部屋を出た。僕がこのまま新宿へ戻ることを言い出しかねていると、クリスは相変わらず陽気で、駄菓子屋でアイスキャンデーを二本買って一本を僕にくれた。外灯が一つ、二つ、疎水に灯を落とし、僕は、やけくそで臭気の部屋へ泊まることを選択していた。 クリスは自分の大きなリュックから出した地図に見入っていて、僕は壁にもたれて漫画週刊誌を広げていると、二人が朝食の材料を買って戻ってきた。彼らは翌日、早朝から仕事へ行くといって、押入から一組の布団を下ろし、自分たちは押入に入り、襖を閉めた。じっとしていても汗がにじみ出るこの暑さ、こっちは窓からぬるい風でも入るが、押入だと翌朝は体中黴が発生しているのではないかと思われた。クリスが敷き布団を敷き、上に毛布を掛けてから服を脱いだので、僕もジーパンを脱いで寝る態勢に入ると、襖が少し開いて「クリス、はい」という声と同時にナイロン袋が揺れ落ちてきた。 クリスがそれを拾って蛍光灯を消し、壁にもたれて座り、袋を口にあてがった。溶剤臭の元が分かった。新宿駅東口周辺で、フーテンがナイロン袋とボンド、レモンの輪切りをセットで売っているのやそれを吸っているのは見慣れていたが、窓から射す外灯の薄明かりの中、畳の上でパンツ一枚の白人が袋を膨らませたり縮ませたりしているのは異様な光景だった。 一応、満足地点までいったのか、クリスが布団で横になっている僕にそれを勧めたが断った。高校時代、近所の文房具屋でボンドを買って吸ったことがあるが、激しい頭痛と嘔吐を経験し、その第一段階を乗り越えることができず、拒絶反応だけが残ったのだ。とりあえず、やるべきことをやってはいた。 押入の中からのふざけ合っているような声を聞きながら、僕はいつしか寝入っていた。どれくらい時間が経っていたのか、何かが体に触れているのに気づいて目覚めた。背中のTシャツの上を這っている。上下左右にゆっくりと背中一面を移動している。体をずらしても執拗に追ってきて、脇腹から胸へ腹へと滑ってくる。押入の中からは、あからさまな媾合の声が漏れてくる。こちらでは手がシャツの下に侵入し、肌を直接愛撫し始めた。 「のう、のう、くりす、のう」 クリスの手をつかんで押し戻そうとするが、一番大切なものを離そうとせず、もう一方の手が洗ったばかりの長い髪をかき分け耳に触れる。 「のう、のう、ぷりーず」 格闘はどれくらい続いただろうか、押入の奥の喘ぎが収まってから、ようやく解放されたが、この日も暑い夜を寝付けずに過ごした。 翌日、クリスは何事もなかったかのように風月堂へ行く僕についてきた。どういうつもりか、部屋にあった大きなリュックまで担いできて僕を不安に陥れていたが、新宿駅近くでソフトクリームを買ってくれたりして上機嫌。風月堂では、トシとあと二人のフーテンが待ちかまえていたかのように僕たちを迎え、今から一緒に大阪へ行くという。クリスとも話はついていたようで、そんな話は初耳で当惑している僕をよそに、みんなそれぞれいつもと違う荷物を持って遠足気分、浮き足だって騒いでいる。勢いに押され、その日の夜、僕は四人の汚い男たちと東名高速道路の入口に立っていた。
by jun-milky
| 2023-03-13 11:28
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