|
2024年 04月 11日
戦前から断続的に結成されてきた「京大俳句会」が、2009年に「第三次京大俳句会」として発足し、今年3月に休会(解散)となって15年間の活動を閉じた。 うらたじゅんは第三次の発足時から参加、いつまで句会に参加していたかはわからないが、残された句帳には2015年1月まで200句余りが残っている。 今年3月末、京大俳句の会報の終刊号が発行され、表紙などに西部講堂、吉田寮など京都大学周辺の風景を描いたうらたじゅんのイラスト約10点が使われている。 ![]() <京大俳句 会誌 自由船> 問い合わせ 奥村つよし 大阪府枚方市星丘2丁目27-18 E-mail:t0103t@gmail.com うらたじゅんの句作 ひたむきに生きた生涯(終刊号へ寄稿・荒木ゆずる) 四度のがんの手術を経て、二〇一九年二月にうらたじゅんは六四歳で他界しました。最初の胃がんから、一七年間を彼女は常に死を意識しながら、食事や運動など健康に留意し、漫画やイラストを描き、個展、ライブ、イベントなどに足を運び、様々な人たちと交流を重ねてひたむきに生きました。 彼女が座右に置いていたマルチン・ルターの言葉「たとえ明日世界が終ろうとも、私は今日、リンゴの木を植えるだろう」をブログに書いたのは、死がおとずれるその日まで精一杯生き抜くという決意の表われだったと思います。彼女にとっては俳句もまたリンゴの木でした。 片腕をもがれてもなお寒桜 傘破れまっしぐら百万遍
二〇〇九年二月、初めて「京大俳句会」に参加した動機を彼女は、「京大・吉田寮で句会をする、という連絡を知人から受け、吉田寮見たさに『参加します』と即答した。とはいえ、俳句なんか作ったことがない。母が愛用していた古い季語集を引っ張り出して、句作に初挑戦してみました」とブログに書きましたが、持ち前の好奇心の強さと母親に対する思いがあったと思います。 母親は亡くなるずっと以前に夫を亡くした後、しばらくして若年性アルツハイマー病を発症、進行してからは娘を認識しなくなりました。父親への傾倒が強かったうらたじゅんは、若いころから母親との間に距離をおいていましたが、介護し、母親の死を看取ったこと、そこに自分が娘を産み、孫の誕生に立ち会った時間を重ねて、彼女自身もまた母親に大切に育てられたことを想起します。「俳句会」に参加して句作することで、俳句を趣味にしていた母親の「季語集」を繙き、跡をたどりたいと願ったのでしょう。 物言わぬ母の瞳につばき散る 薄化粧父待つ星へ母が逝く ![]() もう、四〇年以上前のこと、結婚して数年後の貧乏時代、彼女は京都のオルゴール店に入り、一つのオルゴールに目を留めました。どうしても欲しい、でも一万円以上するのでとても買えない、持ち合わせもない。長時間、手に持っていると見かねた女店主が「代金は後日でいいので、持って帰っていいですよ」といってくれた。後先考えず持ち帰り、後日、家中の金をかき集め、支払いに行きました。 また一〇代の頃、京都で寺山修司の講演が終わった後、彼に近づき「劇団員募集の広告に希望者は作文を書いて送るようにとありましたが、言葉より行為を大切にされているのになぜ作文を書かせるんですか」と聞いたら、彼が「どれだけやる気があるかをみるため」と答えたそうです。 彼女は、若いころから決断力があり物怖じせず、未知の扉の前で臆するより飛び込むタイプでした。それで人生を切り開いてきたのだと思います。 天高し書を売り払い旅に出る
by jun-milky
| 2024-04-11 13:08
| うらたじゅん活動記録
|
ファン申請 |
||