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2023年 04月 04日
5.裸の少女 1970年の夏から冬にかけて僕は「七山小屋」にいて、夏の間は各地からよく人が訪れていたが、以降は客足が減り、クロと二人で過ごす日が多くなり、誰もいない夜はクロからいろいろな話を聞いた。夏でも照明と炊事のために囲炉裏に火を入れ、普段、特に客がいるときはひねくれたしゃべり方をするクロも、二人きりになると火を見つめながら、しんみり心情を吐露することがあった。 よく話題にしたのが長野県や南島にコミューンを築いていた「部族」のこと。特に長老、サカキナナオとは親しくしていて、その神秘的なエピソードは何度も聞かされた。 クロは一メートル五〇センチほどの短躯で、長髪髭面、愛嬌を見せたり時にはずるがしこくなったりする小さな目をしばたたかせて、腰に尺八、夏は膝上で切ったジーパン、サンダルか下駄、冬は登山靴を愛用していて、つねに早足で歩くというスタイル、このとき三六歳。 鹿児島で生まれ育ち、中学卒業後、鹿児島市内の靴屋だったか靴工場だったかで働いていて、ある日ナナオに出会う。何日かともに過ごして影響を受けたのだろう、ナナオに長野県の入笠山へ行きなさいといわれ、翌朝、一〇年以上勤めた職場へ向かうその足で、北へ向かうトラックに乗り込んでしまった。以来、全国を放浪し大阪では「ハチ」や「チェック」などのジャズ喫茶に出入りするうちフウたちと知り合い、七山小屋へ流れ着く。 クロはときどき大阪梅田に新しくできたジャズ喫茶「タイム」へ行こうと僕を誘った。「町はいかん。文明に毒されてはいかん」と口癖のようにいっていたが、小屋での生活は数日と続かず、すぐ町へ出かけ、そういうときは「毒を浴びるのも修行だ」と平然と愛用の小さな布袋を肩にかけた。 国鉄を無賃乗車で二時間ほどかけてタイムへ行くと、そこには七山小屋の創設メンバーがよくきていて、ほかにもクロの知り合いが多かったので、コーヒー代は誰かが払ってくれ、クロにくっついていると、僕も近所の中華料理やうどんなどにありつけ、当時、京都や奈良や神戸などへ行っても、クロにちょっとしたカリスマ性を感じていた人たちの歓迎する空気は濃く、僕もたびたび恩恵を受けた。彼らには僕が弟子のように見えていたかもしれないが、クリシュナやシバ神、般若心経といった意匠をまとい、白檀香に包まれ、座禅を組んで瞑想し、非現実的な話をするというクロの得意のポーズに、宗教が苦手な僕はウンザリしていた。 町にクリスマスソングが流れ始めた頃、冷たい雨の降る夜、七山小屋に珍しく少女が一人でやってきた。その二日前、九州からきたハツキとタイガが滞在していて、二人は二〇歳前後で、ハツキは体格がよく、たった今野良仕事から帰ってきたような素朴な色の浅黒い女、タイガは中肉、痩せてさわやかな顔をした無口な男で、よく働く聡明なハツキがタイガをリードしていた。クロは見境なく女に近づくが拒否されると潔いところもあったので、ハツキのことを誉めてはいたが、他の女に対するような接し方をしなかったのは、どこかで釘を刺されていたに違いない。 彼らとクロと僕が夕食を終えて囲炉裏で暖を取っていると、表の戸を叩く音がしたので僕が立っていき戸を開けると、雨の中、傘も差さずに少女が立っていた。「クロさん、いてる?」と聞く。僕が囲炉裏の方を振り返ると、蝋燭とタオルを持ったクロがすぐそばにやってきて「いらっしゃい」と招き入れる。少女の赤いミニのコートが蝋燭の火に浮かんだ。年は一五、六、痩せた体を縮めている。荷物は小さなショルダーバッグだけ。「これじゃ風邪ひく。着替えなさい」。クロが古着のある壁際の棚に案内する。ハツキがそれを見て、自分のリュックから衣類を出し、少女を部屋の隅に連れて行く。 クロは土間のバケツから薬缶に水を入れて囲炉裏にかけ、新たな茶の用意をする。普段はなかなか動こうとしないクロのまめまめしい豹変。ジーンズとセーターに着替えて囲炉裏端へ来た少女に、クロが自分の隣を指示して座らせる。 「寒かっただろ、さ、ここで暖まりなさい。名前、何ていうの?」 「エイコ」 長い髪をタオルで拭きながら少女がハッキリした口調でいう。 「どこから来たの?」 「京都。イワイさんに、ここ来たらクロさんいてるいうて、地図描いてもろてん」 クロが白檀香に火をつけ、茶を淹れて全員に出す。ただの出がらしの番茶をエイコがゆっくり飲む。 エイコは、イワイのいる京都の同志社大学の寮で数日過ごし、そこでLSDを飲み、裸になってみんなと変態ごっこして楽しかった、とあけすけに話した。イワイたちが前にも同じことをしているのを知っていたクロが「それはLSDじゃない。ただの風邪薬だ」というと、エイコはちょっとがっかりしていた。 しばらくして寝ることになって二階へ上がり、寝袋のないエイコにハツキが四、五枚の毛布を渡し、横に寝て何か諭していた。 翌日、天気がよく、昼から全員で残り少なくなっていた薪を取りに山へ行った。作業をしていると、クロはすぐに投げ出し、エイコとどこかへ行ったので、僕とタイガが丸太を担ぎ、ハツキが束ねた柴を持ち、三人で戻った。 夕食の準備をしているとき、クロだけが戻ってきたので、エイコのことを尋ねると、「ん? 知らないよ」という。夕食を終えてもエイコが戻ってこないので、ハツキが聞いたが、「木と話してるんだろ」といつもの調子。その日、とうとうエイコは帰ってこなかった。 翌朝、ハツキが「自分の着てきた服残して、男物の破れたセーターとズボンでどこか行くとは思えない」といい、再度、クロに別れたときの様子を聞くと、「人間にはそれぞれの道があるんだ」とかいって囲炉裏の火をいじっていたので、ハツキが「あの子、トイレに連れて行ったとき、そばの池を見て、ここで死ねるかな、なんて言ってた。心配だからちょっと見てくる」といったので、タイガと僕も同行した。 池は小屋の裏の林道の奥にあり、林道脇の毛布で囲ったトイレからすぐだ。一〇メートル四方ほどの小さな池で、周辺はぬかるみ、枯れた水草が残っている。水深は一メートルもないだろうが、念のため長い棒でかき回したりしてから、小屋へ戻り、三人で昨日薪を取りに行った辺りを探したが、見つからず戻った。クロはその夜、遅く帰ってきた。 翌日は、範囲を広げて国鉄駅の方へ向かい、僕とタイガはガード下を越えて海の方へも行ったが分からなかった。戻ると、夕食の用意をしているハツキしかいなかったので、クロのことを尋ねると、ずっと見ていないという。 日が落ちてからクロが背中に薪を背負って戻ってきて、黙って薪を土間に積んだ。クロが単独行動をとるのはいつものことで、行き先を聞いてもまともに答えないので無視していたが、エイコを探していたのだと思った。 その日、僕たちが深夜まで起きていると、戸が開いた。ハツキがすぐに立ち上がった。暗がりにぼんやりと人の姿が浮かんだ。 「どうしたの? その格好」 ハツキが驚いた声でいって、慌てて着る物を探している間に、エイコが入ってきた。囲炉裏の火が、ピンクのパンツ一枚しか身につけていない痩せて震えるエイコを照らした。腕で胸を覆い、照れくさそうに笑っている。ハツキが部屋の隅へ連れて行き、服を着せ、囲炉裏のそばへ連れてきた。クロは茶の用意を始めた。 肩から毛布を覆い、しばらく震えていたが、ハツキの問いに話し出した。 「私、薪集めなんかしたなかったから、クロさんと別れて駅行って電車乗って大阪駅で降りて地下鉄で難波行ったん。晩の町歩いてたら、オッサンに声かけられて、ごはんおごってくれたんで、ラブホテル行って泊まって、今日も朝からそのオッサンと付きおうてて、また晩なって、キャバレーかクラブみたいなとこ連れて行かれた。お酒飲まされて、何人かのオッサンと野球拳やって服脱がされてしもうた。あとはよォ覚えてへんけど、気ィついたら電車乗ってて、ここ来てん」 酒の臭いを発散させながら、クロの淹れた熱い茶を両手で包んで飲む。 「裸で電車乗って何も言われへんかったんか?」 僕が聞いた。 「うん。隅っこ座っててん。みんなに見られてた思うけど」 翌日、ハツキが実家のあるという京都までエイコを連れて行った。 「大きな家で、上品なお母さんだった。別に驚いた様子でもなかったから、これまでも同じようなことしてたんじゃないかな」。戻ってからハツキはそういい、タイガと東へ旅立った。 その日、僕が掃除をしていると、戸を開け放ち外へ向かって座禅を組んでいたクロが立ち上がり、「よし、修行だ、今からタイム行こう」といった。上機嫌だった。 #
by jun-milky
| 2023-04-04 13:22
| うらたじゅんの作品
2023年 03月 22日
1970年、この年僕はほとんど仕事をしていなかったが5日くらいだけ伊丹空港のそばで廃品回収を手伝ったことがあった。その2年前、この近くの企業がベトナムへ兵器を送っていて学生や労働者が抗議に押し掛けた。日本の他の多くの企業が兵器、食料、衣類などベトナム特需で潤っていて抗議は続いていたが、70年には大阪万博が開催され、世は“昭和元禄”に浮かれ、ベトナム戦争反対の声は大きな波に押し流されていき、飛行機の轟音に震えていた廃品回収業の一家も散っていった。 大阪府と兵庫県にまたがる伊丹空港のそばに廃品回収業の一家がいた。オジサンは三〇代、縦も横も堂々たる体格で首が太くあばた面、花崗岩の如き容貌。オバサンも三〇代、こちらも背が高かったが体型は中肉、仕事柄身なりを構っていなかったが女優の馬淵晴子に似た美人。小学生の兄妹二人は両親から受け継いだ巨体を何にでもぶつけたがる腕白だった。 僕より二歳年長のモクが花崗岩と交流があって、その紹介で一九七〇年秋、大阪府南部の通称ヒッピーコミューン「七山小屋」や梅田のジャズ喫茶「タイム」に出入りしていた連中数人がここで働いていた。クロと僕が阪急電車蛍池駅で降り、時折、低空を巨大な機体が轟音を響かせて過ぎる殺風景な道路を一〇分余り歩いて空港フェンスの前までいくと、人通りの全くない歩道沿いにテレビが二〇台ほど整然と積まれ、そのいくつかには値札が貼られているのが見えた。その横のトタン塀の一角から中に入ると、高さ数メートルの金属の廃品の山が立ちふさがり、一方には段ボールや新聞紙が束ねられ、こちらもうずたかく積まれていて、独特の臭気が辺りを領していた。 誰もいないので廃品の間を縫って奥へ進むと、ベニヤ板で仕切った二畳ほどの部屋が並んでいて、各部屋は布団や木箱、衣類などが散乱している。その一室に上がり、雑誌を読んだりタバコを吸ったりしていると、ジャンが入ってきた。ジャンは僕より一歳年上で京都に住んでいて、数日前からここで働いていた。 しばらくして他の者が帰ってきて、ジャンがクロと僕を花崗岩に引き合わせた。花崗岩は、ここにいるのは自由だが働かないと賃金も飯もないという。これまで連中の中には寝食だけが目的の者もいたのだそうだ。 仕事の内容については、どこかから廃品を集めてきて花崗岩に買ってもらう。銅は高く、ガスコンロは中の鉄以外には価値がないなどと教えられ、他には集めてきた段ボールや新聞紙を束ねる作業もあるということだった。 廃品の山の奥に花崗岩一家の住居があり、夕刻、そこから男の子が夕食の用意ができたと伝えに来た。通路が狭いので一人ずつ、そこの台所でごはんやおかずを受け取り、ベニヤ部屋へ運んで食べる。クロと僕の分も用意してくれた。メザシと漬物とみそ汁、ごはん。 一室で、モクたちと食事し、そのときモクが話したのは、花崗岩が東京出身で数年前までカリフォルニアで柔道、剣道、按摩に書道と、アメリカ相手なら何でもいいのか、とにかくそんなものを教えていたらしいということと、馬淵晴子が熊本、肥後藩のお殿さんの末裔ということ。道理で料理がヘタだと思った。按摩と姫がどこで知り合ったのか少し興味がわいたがその話は出なかった。 朝食は食パン一枚と牛乳一本。アンマは牛乳配達も兼業していて、早朝、すでにアンマとモクが二人で牛乳配達を済ませ、この牛乳はその残り物だそうだ。アンマによると、廃品回収と牛乳配達を兼業するのは違法で、保健所か何かの査察が入るらしいのだが、隣接する市の警察署長の弱みを握っているので見て見ぬ振りだから同じ軽トラックで早朝は牛乳を、それ以外は廃品を積んで走っていた。また、アンマはこのトラックともう一台、乗用車のコロナの屋根を切り取った“改造オープンカー”を所有していて、こっちのポンコツは車検も受けていなくて「検査標章」という四角いステッカーをどこにも貼っていなかったが、これも署長の弱みのおかげで堂々と走っていた。 仕事だが、廃品を回収してくるといっても、周辺に民家も商店もないから、当然廃品も出てこない。一人不良高校生がいて、彼は自分のバイクで廃品を運んでいたが、あとは自転車と軽トラック。車の免許を持っているのはジャンだけで、他の者は車も免許もないから、アンマかジャンが運転するトラックの助手席に乗って回収してくるか、ボロ自転車の荷台に積んでくるかである。僕はジャンと相談して深夜二人で廃品回収に向かうことにした。 その夜、一二時を回ってからジャンが運転する軽トラックの助手席に乗り出発した。ジャンはこれまで民家の前に置いてある廃品を集めていたという。それでは効率が悪いので商店街を回ろうということになって、近くを回ったが何もない。隣町へも行ったが何もない。牛乳配達の時間までには戻らなければならないが無駄足で帰りたくない。そうこうしているうちに大きな住宅ばかり並ぶ地区に入っていて、そこで見つけた。各戸のガレージなんかの前の溝に渡してある鉄板だ。高級住宅街だからいたるところにある。 反対するジャンを「貧乏人からの搾取によって築かれた財産の一部を返却させるんや」と、乱暴な論で説き伏せ、車から降り、二人で音を立てないよう剥がしにかかる。溝から持ち上げるときはまだいいのだが、車に乗せるときに金属のぶつかる音が深夜の空に響き渡る。すぐその場を後に立ち去る。一枚成功したからか、あとはジャンも自発的に行動し、それぞれ違う家の鉄板を一枚ずつ合計四枚もらった。 報酬は、新聞、鉄、銅などそれぞれキロ単位で価格が決まっていて、アンマがそれを秤に載せてその場で支払う仕組みだ。揚々と凱旋してアンマに見せると、一旦、売り物にはならない、足がつくとはいったが、結局通常の半額で買い取った。しかし、二度と買わないからもうやるな、といわれた。 翌日の深夜もジャンと二人であちこち回ったが成果なく、帰ろうとしているところへ工事現場が現れた。月明かりの更地の一角、一輪車や鉄筋や番線が固めて置かれているのが見えた。一応ワイヤーの柵があるが、横へ回ると柵が途切れていて、これも簡単に頂戴できる。また反対するジャンに「日本社会の諸悪の根元はゼネコンなんやから、これをもらうのは正しいことや」とか、また無茶な口実で説得した。戻ると、アンマは昨日と同じことをいって買い取った。 部屋へ戻って寝ころんでいると、「まともな仕事を教える」といってアンマが僕を牛乳配達に連れだした。僕にあっちの家、こっちの家と指示して牛乳瓶を運ばせるが、自分も家ほどの巨漢を素早い動きにのせて配る。その姿は確かにまともな仕事に見えた。 帰ってから朝食を食べると、アンマが新聞と段ボールを束ねるよういいつけた。これは時給だ。翌日、また牛乳配達を手伝わされたあと廃品を整理していると、アンマが僕に梅田へ行くのでついてこいというので、朝食後、オープンカーに乗った。車中でアンマが後部座席に載っている段ボール箱を開けて中を見るよういったので開けると、赤や黄色のプラスチックのおもちゃのような物。何か分からず見ていると「大人のおもちゃ」という。今度、この商売を始めるにあたって、まず業者の実態調査をすることにした、という。 梅田の曾根崎通りにある大人のおもちゃ屋にアンマの後から入った。先に連絡をつけていたらしく、アンマが店主と営業的なやりとりをしている間、僕は狭い店内をまわりながら、初めて見る奇怪な道具類に興味を感じながら、僕にこのような高度なエロを試す機会は訪れないだろうと思い、この仕事を手伝うよういわれても断るつもりだったがそんな心配はいらなかった。アンマと一緒に二階の倉庫も見てから引き上げ、帰りにアンマはこの件に一言も触れなかった。それ以後の行動にも変化がなかったので、新商売はこの時すでに断念していたようだ。あの段ボールいっぱいのおもちゃはヒメとの遊びに使ったのだろうか。 鉄板や番線泥棒で見込まれたのか、二、三日して今度はクロと一緒に能勢の山中へ連れて行かれた。川を背に草に覆われた空き地があって、その前に立ち「三〇〇坪だ。ここに家を建てる。コミューンにするからみんなに宣伝してくれ」といった。この土地をすでに入手していたのか、何の目的でコミューンにするのかわからなかったが、この話もこれっきりだった。 ある日の夕食後、仲間たちとベニヤ部屋で話しているとアンマがやってきて加わった。アンマはいつもこっちの部屋へやってきては、僕たちが吸っている煙草を一緒に吸ってからヒメのいる住まいへ戻っていく。その日はみんなで京都へ行こうということになった。 僕たちが廃品の中で待っていると、しばらくして出てきたアンマの後を追ってヒメが小声で何か訴えている。アンマが邪険に振り払う。こうした光景はこれまで何回か目撃していて、ヒメは僕たちを快く思っていない様子で、表情にもそれが露骨に表れていた。それはアンマの収入よりも散財が増えている原因が僕たちにあるのだと、それはその通りかも知れず、アンマ自身の放縦な性格も日々の暮らしを圧迫していて、ヒメにとって、アンマも含めた僕たち全員、一家の生活を脅かす有害な子どもだったのだろう。 僕たちは逃げるようにオープンカーに乗り込んだ。前の座席に三人、後ろに四人、ポンコツコロナのエンジンは唸りをあげて一路、京都へ。下鴨一本松のロック喫茶「MAP」に着いたのは深夜。ロックにノって、隣の玉突き場で遊んで、カリフォルニアからインドへトリップして……。 彼らから聞いた話では、ある夜、ベニヤ部屋で数人が休んでいるところへ例によってアンマがきたが、初めて遊びに来ていた誰かが無視した。それにつられて他の者も素知らぬ顔をした。アンマが激高し、日本刀を持ち出して抜き身を突きつけた。「首を落とされると思った」とは彼らの一人の言。クロに聞くと「何のこと?」とうそぶいた。刀はクロの首にあてられていたそうだ。 その後の噂では、ヒメは離婚して子どもたちを連れ熊本の実家へ戻ったらしい。異臭を放ち、錆や黴を付着させ、一個の有機体と化していたくずの山も、毎日出し入れして一台も売れなかったテレビも、目が合うと肩でぶつかってきていた子どもも、間断なく飛び交う巨大な金属塊の爆音に吸い込まれていった。 行方しれずとなったアンマは、またカリフォルニアあたりで、アメ車のオープンカーを走らせ、いかさま剣道を教えていたらいいのだが。 #
by jun-milky
| 2023-03-22 14:38
2023年 03月 13日
大阪南部の小丘にヒッピーコミューンと呼ばれていた<七山小屋>があって、僕は1970年6月から12月まで過ごし、そこを拠点に日本各地をヒッチハイクで移動していた。長野県富士見町にも、自給自足を目指してコミューンを築いていた<部族>という集団がいて、そこにも行ったが、コミューンの斜に構え気取った連中より新宿、風月堂のフーテンたちと会っている方が心安かったので、6月から8月くらいの2、3カ月間だけだが、よく風月堂へ行った。3回目の「かつ丼とソフトクリーム」も、深大寺広場から続く形で、風月堂のフーテンの話になるが、次回からは新宿から離れ、大阪や他の地方に舞台を移す。 深大寺広場の隅の草むらで目覚めた僕の周囲では、早朝から人が行き来していた。うろついていると、トシがフーテンと二人、毛布に座っているのが見えた。 トシは、風月堂で最初に僕に話しかけてきたフーテンだった。濃い目眉が特徴で、中背、筋肉質、黒いTシャツの胸の部分を隆起させていた。二、三歳年上に見え、僕に対して兄のように接していた彼は、あるとき、僕がほとんど金を持っていないのを知って「ちょっと待ってろ」と風月堂を出ていった。二、三時間して戻ってきたトシは、近くに最近開店した小さなカツ丼屋へ僕を誘い、豚カツをかじりながら、風月堂のコーヒー代も任せろというので「金、大丈夫?」と聞いたが笑って答えない。そんなことより、僕は久しぶりの肉の味にとろけていた。 その後、また東京へ行ったとき、トシと風月堂で会った。いつのまにかいなくなっていた彼が戻ってきて、また誘われるままカツ丼屋へ入った。同じ質問をすると今度は答えた。「血液銀行で血ィ、売ってきた」 揚げた肉を切って丼飯に載せ、その上から卵を溶き入れた出汁をかけて客に出し、また赤い肉に衣をつけ高温の油に入れる背を向けた店の親爺の首筋から、汗が玉となって落ちていた。 トシが、昨日から探していたのにどこにいたのか、と咎める調子で聞くので、シオという知り合いに会って話していたと答え、「茶、飲ましてもらえるで」と言い訳がましくいって三人でシオのテントに向かった。 テントの前では、男物のシャツを着たカリンとシオがいたので、紹介すると、朝食にしようといって、カリンが買い物に走り、シオはジャガイモを茹で、玉葱をみじん切り。とにかくいつも料理を作っている男で、詩などいつ読んでいるのか。 みんなでパン、オムレツ、コーヒーの朝食をとっていると、いつからいたのか、一〇メートルほど離れた柵に腰掛けた白人の男が「ファンタスティック、ファンタスティック」といきなり叫びだし、僕たちは一斉に目を奪われた。ブルージーンズに白いシャツの金髪を、トシがこっちの輪に連れてきてコーヒーを勧めたが、「ファンタスティック」を繰り返すばかりで埒があかない。 おそらくLSDをやっているのだとシオがいって、無視することにした。ブルースが熱い空気をふるわせながら流れてくるなか、しばらくして、金髪がやや正気を取り戻してきた。シオが片言の英語で話しかける内、この痩せた長身美形がスウェーデン人で、クリスという名前だと分かった。 その後、僕たちが音楽を聴きながら太陽を浴びて長い気だるい時間をまどろんでいると、トシが風月堂へ行こうと言い出し、僕たちはシオとカリンに別れを告げた。トシとフーテンと三人で歩き出すと、いつの間にかクリスがついてきていて、電車も一緒に乗り、とうとう風月堂までやってきた。席に着くと、クリスが僕に自分の住んでいるところへ行こうと誘う。トシもついて行くといったがクリスが断った。大阪の万博周辺や京都で、若い欧米人がグループで暮らしているのを見ていた僕は、ナマの北欧美人と会えるかもしれないと期待した。トシには悪いが「れっつ・ごう」。 クリスの英語力は僕と同程度で、ほとんどボディ・ランゲージながら、電車内での会話から、彼の年が二三歳で、二週間前に日本に来たこと、京都に行きたいということが分かった。 破れた板塀、錆びついた手すり、そこは古い木造二階建てのアパートで、北欧美人の気配なく、クリスが鍵を開けて入った部屋には四畳半一間の壁際に大きなリュック、畳の上に日本の漫画雑誌が散乱しているばかり。木枠の窓ガラスから射す斜めの陽が、小さな卓袱台の上の干からびた胡瓜の破片、茶色い綿のはみ出た退色座布団などに滲んでいる。 クリスは陽気に、立ちつくしている僕に「セント、セント」といっている。意味がよく分からず「あい・はぶ・のう・まね」とかいって困惑していると、流し台の下から洗面器を取り出し、僕に示す。さらにそこへ石鹸を入れ、リュックからタオルを出してきたので、ようやく分かった。銭湯に行こうというのである。この前風呂に入ったのは、一カ月前だったか、もう随分経ったように思う。僕が同意を示すと、クリスはタオルを一枚渡し、靴を履いた。 泡のあふれた湯に首までつかり、アップにした金髪の襟足の後れ毛の先を濡らしながらブランデーグラス片手に「ジェームズ、カモン」とか甘えた声で……。映画で見たことのある欧米の風呂というのはこういうので、白人が日本の熱い浴槽に肌を赤く染めて入っている光景が想像できない僕の心配をよそに、クリスはしっかり馴染んでいた。一番風呂をもくろんできた老人たちの視線を後目に、浸かっては出て放心し、また浸かっては陶然となって、それを何度も繰り返して僕にも勧めるが、元来、風呂嫌いの僕は付き合いきれず、結局、脱衣場で週刊誌を何冊も見るくらい退屈させられた。 日の長い夏の夕暮れの疎水縁をクリスは美しい顔を上気させ、大はしゃぎで「ジャパニーズ・セント・ファンタスティックネ」と踊るように歩いた。アパートへ戻ると、部屋には日本人の若い男女がいて、パンとコロッケを食べていた。クリスが僕を紹介すると、自分たちの食べ物を勧めてくれたが、二人は僕にほとんど関心を示さず、アルバイト先の上司や同僚の悪口、労働条件がどうの、転職がどうのと話し合っていた。 そのうち、彼らも英語がほとんど話せないこと、クリスが居候だということが分かったが、どういう経緯でクリスがここに泊まるようになったかはいわなかった。彼らは僕に泊まってもいいといってくれ、睡眠不足で、できることならこのまま動きたくなかったが、ここにいることにも強い抵抗があった。一カ月も風呂に入らない僕がいうのも何だが、この部屋には異様な臭いが充満していたのだ。食べ物の腐臭と人の体液の発酵と溶剤臭が混ざり合った刺激的な粒子が飛び交い、体中の皮膚に粘着してきて、おまけに、二人の男女は着る物に構わない性質で、シャツとジーンズはほつれて斑に汚れ、フケを肩に垂らし、まだ二〇歳くらいに見えたが、皮膚はたるみ、荒んでいた。異常に長い銭湯での潔癖感とこの濃厚な部屋で寛いでいる、二つのかけ離れた人格がクリスの中でどう折り合っているのか理解しがたい。 しばらくして二人が買い物に出かけ、クリスと僕も後から部屋を出た。僕がこのまま新宿へ戻ることを言い出しかねていると、クリスは相変わらず陽気で、駄菓子屋でアイスキャンデーを二本買って一本を僕にくれた。外灯が一つ、二つ、疎水に灯を落とし、僕は、やけくそで臭気の部屋へ泊まることを選択していた。 クリスは自分の大きなリュックから出した地図に見入っていて、僕は壁にもたれて漫画週刊誌を広げていると、二人が朝食の材料を買って戻ってきた。彼らは翌日、早朝から仕事へ行くといって、押入から一組の布団を下ろし、自分たちは押入に入り、襖を閉めた。じっとしていても汗がにじみ出るこの暑さ、こっちは窓からぬるい風でも入るが、押入だと翌朝は体中黴が発生しているのではないかと思われた。クリスが敷き布団を敷き、上に毛布を掛けてから服を脱いだので、僕もジーパンを脱いで寝る態勢に入ると、襖が少し開いて「クリス、はい」という声と同時にナイロン袋が揺れ落ちてきた。 クリスがそれを拾って蛍光灯を消し、壁にもたれて座り、袋を口にあてがった。溶剤臭の元が分かった。新宿駅東口周辺で、フーテンがナイロン袋とボンド、レモンの輪切りをセットで売っているのやそれを吸っているのは見慣れていたが、窓から射す外灯の薄明かりの中、畳の上でパンツ一枚の白人が袋を膨らませたり縮ませたりしているのは異様な光景だった。 一応、満足地点までいったのか、クリスが布団で横になっている僕にそれを勧めたが断った。高校時代、近所の文房具屋でボンドを買って吸ったことがあるが、激しい頭痛と嘔吐を経験し、その第一段階を乗り越えることができず、拒絶反応だけが残ったのだ。とりあえず、やるべきことをやってはいた。 押入の中からのふざけ合っているような声を聞きながら、僕はいつしか寝入っていた。どれくらい時間が経っていたのか、何かが体に触れているのに気づいて目覚めた。背中のTシャツの上を這っている。上下左右にゆっくりと背中一面を移動している。体をずらしても執拗に追ってきて、脇腹から胸へ腹へと滑ってくる。押入の中からは、あからさまな媾合の声が漏れてくる。こちらでは手がシャツの下に侵入し、肌を直接愛撫し始めた。 「のう、のう、くりす、のう」 クリスの手をつかんで押し戻そうとするが、一番大切なものを離そうとせず、もう一方の手が洗ったばかりの長い髪をかき分け耳に触れる。 「のう、のう、ぷりーず」 格闘はどれくらい続いただろうか、押入の奥の喘ぎが収まってから、ようやく解放されたが、この日も暑い夜を寝付けずに過ごした。 翌日、クリスは何事もなかったかのように風月堂へ行く僕についてきた。どういうつもりか、部屋にあった大きなリュックまで担いできて僕を不安に陥れていたが、新宿駅近くでソフトクリームを買ってくれたりして上機嫌。風月堂では、トシとあと二人のフーテンが待ちかまえていたかのように僕たちを迎え、今から一緒に大阪へ行くという。クリスとも話はついていたようで、そんな話は初耳で当惑している僕をよそに、みんなそれぞれいつもと違う荷物を持って遠足気分、浮き足だって騒いでいる。勢いに押され、その日の夜、僕は四人の汚い男たちと東名高速道路の入口に立っていた。 #
by jun-milky
| 2023-03-13 11:28
2023年 03月 11日
前回、更新したブログ、文字サイズが小さかったり大きかったり。 ブログを操作するのが初めてで、四苦八苦したにもかかわらずこの結果。 この後も多々ミスりそうですが、めげずに続けるつもりです。
タイトル『風と月と』はうらたじゅんの案です。原案は『風と月とヒッチハイク』でしたが「ヒッチハイク」を省きました。僕が依頼したとき、間髪入れずにこのタイトルを挙げ、それは非常に“適当”と思われたのですが、イラストを描いてもらった手前、却下できず、ここに至っています。
今回の「深大寺のランボー」は1970年、東京の深大寺広場で開催されたロックコンサートに行ったときの話です。このコンサートの模様は当時NHKが取材して「現代の映像」のタイトルで放送し、今、youtubeの「NHKアーカイブス」でみることができます。インタビューが中心で音楽はほとんどありませんが。 トゥマッチ 自由広場の若者達 NHKアーカイブス- YouTube ニューヨークのビルや車を背景に、ボブ・ディランが恋人スーズと肩寄せ合って、雪の歩道を寒さに身を縮め少し微笑んで写っている「フリーホイリン」のレコードジャケットに憧れていた。収録されていた「北国の少女」のリリカルな調べに重なる長い髪のスーズは僕の恋人でもあった。 一九六〇年代、カウンターカルチャーのメッカとして多くの文化人を集めていた新宿の喫茶店「風月堂」は、僕が行った七〇年、一階は一般客で二階にフーテンたちがたむろするようになっていた。フーテンたちはほとんどが男で、僕が知り合った男たちには誰もカノジョがいないように見え、そういう話題もほとんどなかった。彼らは複数で行動するというようなことはなく、何かの表現活動をするでもなく、ただ来る日を無為に過ごしているように見えた。僕自身がそうだった。でも、したいコトはあった。 一九七〇年七月一一日、その日は午後一時から調布の深大寺広場で二四時間のロックコンサートがあるというので、風月堂で僕はフーテンたちとそのサイケデリックなチラシを広げてはしゃいでいた。ただ、女の子が一人もいないことが不満で、一緒に深大寺へ行く男たちに、大勢の方が楽しいので、もっと誰か誘うよう持ちかけると、誰かが後から店に来た二人に声を掛けた。しかしこれも男だ。 僕には東京に二歳上の知り合いがいた。東京にいる間、彼女の中野のアパートに泊めてくれる優しい人だったが、よくスナックで飲んでいたり、会話はテレビの芸能人の話題ばかりで、興が乗らない。また、この年の春、知り合った女の子もいた。しかし九州に住んでいて、おまけに高校生、春に会ったきり。 スーズを探していた。深大寺で見つかるかもしれない、あきらめかけていたとき、彼女がやってきた。階段を上がったすぐ前のテーブルに着いた。一人だ。ブルージーンズに臙脂の絞り染めTシャツ、茶のサンダル、ストレートのロングヘアーに幾重にも絡まったカラフルビーズのネックレス、“和製サンフランシスコ”がショルダーバッグから本を取りだして読み始めた。体格はしっかりしすぎているようで、顔もやや扁平、スーズから隔たった感は否めないが、どことなく知的な愁いというか、切なげな影を宿しているように見えなくもない。僕は決死の覚悟で席を立った。 「ねェ、話しかけていい?」 彼女は目を上げてほほえんでくれた。彼女の前に座る。「ねェ、今日、深大寺でコンサートやるの、知ってる?」。こわばった渾身の東京弁。 「うん、知ってる」 「僕たちさァ、もうすぐ行こうと思ってンだけど、よかったら、一緒に行かない?」 「うん、いいよ。私も行くつもりだったから」 オリャーッ、どや。 新宿駅へ向かう途中、男たちは彼女に群がり、蟻の団子運び状態で電車に転がり込んだ。車内では運良く、彼女と並んで吊革を持つと、彼女はユリという名で池袋に住んでいるといい、深大寺の近くに知り合いがいるので寄って行こうと僕を誘った。 駅に着き、フーテンたちに別れを告げ、僕とユリは小雨の中、住宅街を歩き、ユリがここだと指した一軒の家の前に立った。意外にも、庭付き一戸建てで、ユリが自分の家のように門を過ぎ、玄関を開けて進む廊下を僕はちょっと不安になりながらついていく。廊下の途中で「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」のギターが聞こえてきた。嫌な予感がのしかかってくる。 突き当たりの部屋にユリの後から入った。上半身裸の長髪の男二人がギターを弾いている。僕たちに気づかないのか、一心不乱にサンフランシスコの湾岸を走っている。ユリが近くの椅子に座ったので僕も横に座る。区切りがついたとき、ユリが僕を紹介した。二人の男は今日のコンサートに出演する予定で、その練習をしていること、ユリが彼らのファンか取り巻きの一人だということが分かった。 しばらくして、僕とユリはその家を後にした。深大寺広場へ向かいながら、ユリが腕を組んできた。真夏の「フリーホイリン」。住宅街の中のアスファルト、すれ違う人たち、みんなまぶしい。空から落ちる雨さえ、あつい。 深大寺広場に着くと、奥のステージからギターやドラムの音が響いてきた。広場にはテントがいくつも張られていて、僕がフーテンたちを探すというと、ユリが「じゃ、あとで」と去り、僕は後方に固まっていたフーテンたちと合流した。その後、一人で広場内を歩いていると、僕たちとは別に来ていた風月堂の常連のトシが追ってきて、バッグからあんパンを一個出し、割った半分をくれた。食べ終えると、トシがいった。 「今日、ずっとここにいるだろ? 俺、毛布取りに帰る、二枚あるから」 僕の分も毛布を持って来るという親切に感謝した。 トシが去った後、僕がユリのところへ行こうとしたとき、背後から僕の名を呼ぶ声がした。シオだった。 数日前、長野県の富士見のコミューンで知り合ったシオは、髪の短い普通の格好をした学生で、四、五人用テントとキャンプ用品一式を持参していて、僕を自分のテントに誘ってくれた。シオに他の連れはいなかったので、僕はシオの淹れた紅茶を飲みながら、友達もここに誘ってもいいかと聞いた。シオが承諾したので、ユリを探し、連れて戻ると、シオは飯盒やコッフェルを使って、海老とトマトと玉葱の入った雑炊をつくり、パセリをかけて僕たちに出した。それを食べ終え、僕とユリはステージ前へ行った。 遠藤賢司やタジ・マハール旅行団などの演奏にみんなノッていた。僕が小便に行って戻ると、ステージのすぐ前では一〇人ほどが踊っていて、その中に、上半身裸で髪を振り乱している女がいた。ユリだ。大きな褐色の乳房が激しく揺れている。“切なげな影”とともに僕の幼稚なレモン色の「フリーホイリン」が一瞬で崩れてしまった。 テントに戻ると、テントの前でシオが、知らないカップルと茶を飲みながら話している。シオは僕を見ると、チャイを作るから、テントの中で飲もうといって、準備を始めた。カップルの女の方とテントの中を整理していると、女がカリンと名乗った。野暮ったく見えていたがよく見ると美人だ。節操もなく、僕は壊れた“レモン”を直しにかかっている。 いつの間にか、カップルの男がいなくなっていて、三人でチャイを飲む。シオがローソクに火をつけ、白檀香を焚き、煙草の葉を紙に巻いて火をつけ吸ってから僕に渡し、僕も吸ってからカリンに回した。「頭脳警察」の演奏が始まっていた。割れたギターの音とシオの話し声が交錯する。 「ランボーはね、一六歳で書き始めて一九歳で詩を捨てた。その若さでたった三、四年のあいだに詩の塔の頂上へ登りつめた孤高の詩人だったんだ」 「ふうん、そうなんだ」 カリンが答えている。正面にシオ、こちらに僕とカリンが並び先生と生徒のような具合。 「彼は芸術家といわれる大家を侮蔑し、エロ本とか、旅芸人、通俗的なものを愛してたんだ」「『言葉の錬金術』で彼はまやかしの合金など作らなかった。純金を発明した。あらゆる感覚を紙の上にピンで捉えた。眩暈さえも……」「当時フランス詩壇に力を持っていたヴェルレーヌをその妻から引き離し、肉体関係を続けながらヨーロッパ中を放浪していたんだけど、ブリュッセルで別れ話のもつれからヴェルレーヌに拳銃で左手を撃たれてしまう」 ボクもカリンと同じように、それまでランボーのことを知らなかったが、そのとき、ランボーが大きな存在感を持って目の前にいるように感じ、いつの間にか、シオの話に引き込まれていた。 「母音という詩、これはA、O、E、I、Uをそれぞれ色に置き換えたというか、あたかも最初からその色を持っていたかのように対応させている。恐らくハシシやりながら書いたと思うんだ」 「ハシシって?」 僕に密着するように座っていたカリンが、向かいにいるシオを見つめた。 「大麻の樹脂固めたもの」 「何か、分かるような気、するな。うん、分かる」 シオのメロディはランボーからロートレアモン、シュールレアリスムへと変調していった。外の音楽はもう耳に入らず、シオの発する言葉が輝き、パリのカフェに、ベルギーの荒野に、僕は酩酊していた。 何気なく目を開けると、シオのそばに移動していたカリンの手がシオの手と重なっている。その上方でカリンとシオが見つめ合っている。高圧状態だったテントの空間がただ暑いだけになって僕は外へ出た。広場の観客は増えていてテントの側まで大騒ぎ。大音響に酔う聴衆の間を浮遊しながら僕は、自家発電で小さなスケベの火を燃え上がらせ決意していた。「ランボーやったるで」 #
by jun-milky
| 2023-03-11 15:36
2023年 03月 09日
うらたじゅんが去って4年余りが経ちました。 この間、京都の「お別れ会」や東京の「偲ぶ会」、京都、東京での追悼展、『幻燈』15号の「追悼うらたじゅんさん」、漫画全集「ザ・うらたじゅん」、絵本「本の匂い/猫の足音」、筑摩書房のまんがアンソロジーなどの出版、「北冬書房半世紀展」の座談会「うらたじゅんさんを忘れない」などで多くの方にお世話になりました。どうもありがとうございました。
2010年ごろ、彼女が僕の短編小説の表紙と扉絵13点を描いてくれました。 この絵と小説をここに載せることにしました。全13篇のうち半分くらい、1篇ずつ不定期で掲載していく予定です。 この小説は1970年、19歳だった僕の体験に基づいたものです。 第1回は「地獄の天使」で、以前、僕のこの体験を彼女に話していて、『嵐電』(2006年)収載の「新宿泥棒神田日記」の前半で彼女はこれをほぼ忠実にストーリー化しています。 荒木ゆずる ヒッチハイクを覚えた当初、僕は大阪と東京を何度も往復して、高速道路の東京インターチェンジ出口から直行する新宿の喫茶店「風月堂」に出入りするうち、何人かのフーテンと知り合った。一九六〇年代はカウンターカルチャーのメッカといわれた風月堂は七〇年、二階席はフーテンのたまり場となっていた。コーヒー一杯を注文すると、勝手に出入りしても咎められなかったので、紀伊国屋書店や新宿御苑などへ行ってから戻ったりしていた。二階席に着くと、何人かが寄ってきて、タダで移動できるヒッチハイクに興味を持ち、僕が大阪へ戻るときは、一人、あるいは複数がよくついて来た。 その中の一人に、真夏なのにいつも革のジャンパー、パンツ、ブーツの黒ずくめに、金銀いくつもの鎖やアクセサリーをぶら下げて、全身から危険な異臭を放っていたバイクに乗らない「ヘルズ・エンジェルス」(アメリカの過激バイク集団)を気取る男がいた。中肉中背、髪をリーゼント風に固めたヤスオは僕より二、三歳年上に見えた。 あるとき風月堂で彼が隣に座ってきたので、僕は「シナリオライターに興味がある」と、できることならかかわりたくなく、彼に関心のなさそうな話題を適当に口走った。すると意外にもヤスオは「ダチ、紹介スッから来いよ、今から行こう」といって席を立った。強引に誘われ、僕はヤスオのあとから店を出た。 強い陽光を浴び、噎せ返る新宿の雑踏をかき分け、ヤスオはとあるビルの前で止まり振り返った。「ナギサだよ」という。 「なぎさ?」 「うん、オオシマナギサ」 そういって暗い階段を上っていく。大島渚というと、当時、斜陽化してきた映画界に新風を吹き込み、華々しく活躍している映画監督ではないか。今更シナリオライターが嘘とはいえない。彼の映画も観ていないし、何を話せばいいのか。 階段を上ったところに頑丈な木製の大机があって、両側は打ち放しコンクリート、学校の教室五室くらいをぶち抜いた広さ。左奥、三〇メートルほど先だけにライトが当たり、数人の男女が演技の稽古をしているようで、僕を待たせてヤスオがそっちへ向かう。しばらくして誰かと二人でこっちへ向かってきた。ヤスオが大声で僕に呼びかけたので、緊張しながら進んだ。すぐ前で二人が止まる。ヤスオが「大島監督」と紹介し、手のひらをこちらに向けて「彼、シナリオ書いてるユズル」といった。 「よろしく。、ちょっと手が離せないから、後で話しましょう」 大島渚はそういって奥へ戻った。 ヤスオが僕の腕を取って階段の方へ進んだ。僕は救われた思いで従う。しかし、ビルを出ると思ったヤスオが、大机の前で、開いたり、積まれたりしている一〇冊ほどの本を手にしたので、薄暗がりの中、僕もその本を見た。ほとんど沖縄関連の大判の厚い本で、僕は大島渚が沖縄を舞台にした映画を製作中だという情報を何かで見ていたので、その現場に立ち合ったことに少し興奮した。 ページを繰っていると、ヤスオが、自分のバッグから唐草模様の風呂敷を取り出して大机の上に広げ、百科事典ほどのサイズの本を一冊ずつそこへ載せていくではないか。了解済みなのかと思ったが、誰も立ち合っていないのでそんなはずはない。四冊か五冊か、ゆっくりとした動作で重ね、風呂敷の四隅をつまんで結ぶ。奥を見たが誰もこちらに注意を払っている様子はない。ヤスオは風呂敷包みを両腕で抱え、階段へ向かった。堂々とした手際。呆気にとられていた僕はあわてて彼の後から階段を駆け下りた。 ヤスオが無言で雑踏の中を駅の方へ向かっていく。新宿駅に着くと、神田駅までの切符を買ってくれという。四〇円の切符を二枚買って中央線に乗った。改札口を出たところでヤスオは僕に待っているようにいって、通りの向こうへ消えた。炎天下、シンセイを吸いながら、ヤスオが大島渚と知り合ったのは、昨年公開された大島監督の『新宿泥棒日記』にエキストラとして出ていたかもしれないからだと思った。僕がシナリオライター云々といっていなかったら展開は変わっていただろう。 三〇分ほどしてヤスオが戻ってきた。手にしていた風呂敷包みはもうない。僕の新宿までの切符はヤスオが買い、新宿駅でヤスオと別れ、僕はまた風月堂へ向かった。 ヤスオが僕に古本屋へ売った本の代金を一円も渡さなかったことに僕は救われた思いがしていた。不本意にも窃盗のダシに使われた訳だが、しかし、交通費を払って神田までついていったのは、分け前をもらえるかも知れないという調子のいい便乗根性ではなかったか。 翌朝、僕は昨年末、東京から大阪へ遊びに来ていて知り合ったケイのアパートを出て、仕事へ向かう彼女と新宿駅で別れ一人降りた。東口の植え込み、通称「グリーンハウス」にしばらく座ってから付近を散歩しながら、ほとんど金がなく、今日大阪へ戻るかどうか思案しているうち、風月堂の前にきていた。 僕の知り合った連中が来るのはたいてい午後からだ。今回はこのまま大阪へ帰ろうと決め、駅へ向かうと、向こうからヤスオがやってくるのがみえた。素知らぬ顔で僕は反対側の歩道へ移ったが、人通りが少なく見つかってしまった。道路を挟んだ歩道から大声で僕の名を呼ぶので立ち止まるとこっちへやってきた。僕が今から大阪へ帰ることを伝えると、自分も行くといって、コーヒー代を出すからとりあえず風月堂へ行こうと誘われ、また戻った。席に着くとヤスオは、飯をおごるから発つ前に自分の荷物を取りに行くのでついてきてくれといってから席を立ち、誰かと話し込んでいた。 昼前に風月堂を出て、新宿の西口、入り組んだ路地の両側に飲食店が建ち並ぶ「小便横町」でコロッケ定食を食べてから駅へ向かった。五つ目くらいの駅で降り、歩いてヤスオの住居という所へ向かう。 工事中のビルの前で止まり、破れたトタンの隙間から中に入ると、ベニヤの合板が立ちはだかっていて、その一角、地面に接して七、八〇センチ四方の穴が開いている。ヤスオはそこへ潜り込んだ。僕も黙って続いた。 内部は床も含めて周りが合板で仕切られた縦横七、八〇センチの通路になっていて、等間隔に裸電球が照らすそこを這って進む。アメリカ映画の『大脱走』を思い出した。ときどき側面に開けた空間があり、卓袱台の前に男女が座っていて、奥に布団が積まれているのが見えたりした。そうした合板で仕切られた「部屋」をいくつか過ぎ二、三〇メートル進んだだろうか、ヤスオが合板の戸に取り付けた南京錠を外して中へ入り、電球のスイッチをひねった。二畳ほどのスペース、高さは一メートル余り。衣類や毛布、週刊誌、ラーメンの袋などが散らばっていて、一〇匹ほどのゴキブリがゆっくりと、地面に直接敷いた合板の床や壁の隙間へ入っていく。僕がシンセイを吸っていると開いたドアから通路を走り去る鼠が見えた。そのあとから誰かが這って行く。ヤスオは頭陀袋に部屋の中のものを詰め始めていて、木箱と雑誌だけを残し「よし」といった。薄暗い通路をまた這って外へ出ると、真夏の陽光に目がくらんだ。 「挨拶するヤツがいる」というので、また風月堂へ行き、そこでヤスオは「岐阜にスケがいるから会いに行くんだ」という。このために窃盗したのだと思った。 夕方、東名高速道路へ向かう。インターチェンジの前で車を待つ間、僕が一人しか乗れない場合、別々に行こう、というと、ヤスオはただ「ああ」と返事した。 しかし、すぐにトラックが止まってくれ、静岡インター手前の日本平パーキングエリアまで二人を乗せてくれた。僕がトイレに行って戻ると、ベンチでタバコを吸っていたヤスオが僕にシンセイの箱とマッチを渡す。半分ほど入っている箱から一本抜き取って返すと、「やるよ」という。 「ええんか?」 「ああ」 そして、胸の辺りのジャラジャラから銀色の髑髏の飾り物を外し、「これ」といって差し出す。僕が怪訝な表情をしていると、押し付けた。 「いいよ」 本当に欲しくないのだが、遠慮を装って断った。 「いいから」 ヤスオはそういって立ち上がり、タバコの煙を吐き出し、「スケがいるっての、嘘なんだ」とつぶやいた。 「……」 どっちでもええ、そんなこと、と思ったが黙っていた。外灯が一つ、ヤスオの頭の向こうで鈍い光を放ち、その光の中を虫が舞っている。 「ユズル、お前、兄弟いる?」 ヤスオが向き直った。 「ああ」 「俺、妹いんだ、高校生の。多分」 タバコを落として踏み消し、隣に座る。「三年、俺、家、帰ってねェからさ」 空は曇っているから月も星もない。温い風が吹いている。 僕が荷物を持ってエリアの出口へ向かうと、ヤスオはすぐについてきた。外灯の下で待つ。一時間ほど経って乗用車が止まった。近寄ると、中年の運転手が「どこまで?」と聞くので「どこまで行かれますか?」と聞き返すと、「大阪」と答えた。ヒッチハイクでは普通、複数いると誰かは運転手の話し相手をするために助手席へ座るのだが、僕が先に後部座席に着くとヤスオも僕の隣に乗り込んできた。動き出してしばらくすると、ヤスオが僕の手を取って何かを手渡した。見ると八つ折りにした百円札一枚。 春日井インターを少しすぎたところでヤスオが停車するよう頼み、降りるとき「ありがとう」といった。運転手か僕かどっちにいったのか分からない。動き出した車から振り返ると、ガードレールを乗り越えた「地獄の天使」のシルエットが、急傾斜のスロープを滑り落ちていくのが見えた。 #
by jun-milky
| 2023-03-09 12:49
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